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サッカー「ミュージアム」の素146 [M@ミュージアムマネージャー]

「そのご主人から長靴をもらったの?」
「いえ、長靴さえ、持っていなかったのです。
それは12月の日曜日、昼間とはいえ風はとても冷たく、
国立競技場という名前ばかりの芝は枯れきり、
ところどころ欠け落ちた薄いプラスチックの長板が座席という場所でした。
むき出しのコンクリートはかさかさに干からびて、
ところどころが剥げ落ちていました。
そんな場所に、今までに僕が見たこともない観客が押し黙って座っていました。
年齢層もまちまちな男達が、今から山に入る修験者か、
皇帝に申し立てをする議員のように、眉間にしわをよせ上着を首にたくり寄せ肩をすぼめていました。
誰もが難しい顔をしていました。
お金まで払って、この人たちは何をし来ているのだろうと不思議な気がしたものです。

しかし、僕の仕事ときたら、なにもすることができないのです。
会場のアナウンスの原稿を用意することと、電光掲示板に文字を出すことだけでした。
何かを見せるでもなく、聞かせるでもなく、何の仕掛けもそこにはありません。
どこにも演出の要素はありませんでした。
近隣からクレームが入るという理由で音楽すら流すこともできず、
アナウンスも最低限にしろというのです。
僕の仕事は表彰式の段取りを取りさえすればいいというものでした。
これでは、そこに集まった人々を幸せにすることなど不可能です。
周囲の人々は淡々と仕事をしていました。誰も上等な服を着ていませんし、
上等な靴もはいていません。誰もそれぞれが持ち場を持っていて、
それ以外のことには、まったく興味が無いようでした。
どこの誰であっても、そこにいるのなら自分の仕事だけを考えろという決まりがあるかのようでした。
観客は時間が経つにつれ増えていきます。
従来僕が経験してきた1万人を超えるコンサートでは観客は昂ぶり、
スタッフ誰もが細心の注意を払うものです。
現場には張り詰めてピリピリした緊張で息が苦しくなるものです。

ところが3万人を優に超えてさえ、この会場は静かでした。
枯れた芝生を前に観客の男たちはじっと座り続けています。
あるものは飲み物を飲み、あるものはあくびをし、
あるものはぼそぼその焼きソバを口にし、あるものはびんぼうゆすりをしています。
南米チャンピオンとヨーロッパチャンピオンによって世界一のクラブチームを決める試合をするというのですが、
とてもそのことにつながるような光景であるとは思えません。
やがて時間が来て、両チームがウォーミングアップに登場すると、
ようやくまばらな拍手が起こりました。
勝負ごとならば、普通どちらかのチームを応援すると考えるのですが、
この観客達はまるきし、そんなこととは縁がないのです。

選手が現れるとともに、身を乗り出しさらに表情を厳しくしています。
ひどい静寂のなか、キックオフの笛は吹かれました。

すり鉢上のスタンドから4万人以上の男達が見つめるボールは、
どこの国の法律もおよばない白線の内側の結界の中で自由でした。
子犬のように選手になついたかと思うと、蛇のように逃げ出し、
蝙蝠のように不可思議な動きをしました。
観客の男たちは、4万人が4万人ひとりひとりが、その動きに、
喉の奥から声にならない声、深いため息のようなものを発していました。
やがてゴールが決まり、ひときわ大きなため息が会場を覆いました。
ゴールキーパーは、交通事故にでもあったように、
怒りと悲しみで体を震わせながら呆然としていました。
そしてゴールを決めたほうときたら、
全世界の神という神様に感謝の祈りをささげている始末です。
僕はとても激しい違和感を持ちました。
まるで自分が預かった舞台上のあちらこちらで事故が起こっているような光景でした。
それはまったく予定調和をめざしていない、
自分の経験値から外れた、とても粗野な時間にしか思えなかったのです。
無思想で何の合理もなく、言葉すら存在せず、
何もかもが混沌とし、ムチャクチャ、デタラメに見えました。決定的に理解できないことは、
そこで行われていることが、誰をも幸せにしようとはしていないと思ったことです。

しかし、それは誤りでした。
僕はいつからか、スタンドにいる観客と同じうなり声、深いため息をついていたのです。
ごろごろと喉を鳴らして、僕は幸せでした。
それは粗雑でありながら精緻で、猥雑でありながら高潔でした。
それは「言葉」ではありませんでした。
そして誰かが作りあげようとしたものでなく、
それはまぎれもない今起こっている現実でした。

少し動揺しました。
何故ならいままで自分がたずさわったことで、
そこで行われているものにここまで魅入られたことなどなかったからです。
かつてひどく感動したと思ったジャン・ミッシェル・ジャールのコンサートでも、
自分を忘れるようなことは起こりませんでした。

少し動揺しながら僕は、こう思いました。
みてくれも悪く、ひどく貧乏だけれど、僕はこの仕事を続けると。
とうとう僕はとんだご主人に出会ってしまったわけです。
やがて、ご主人は立派な身なりのお金持ちになって行きました。
でも元来、そんなことは、これぽちも望んではいないのです。
ご主人は僕を搾取しないかわりに、リスペクトもしてくれません。
けれど僕は僕の仕事しなくてはなりません。
その僕の仕事といえば、今では立派なみてくれになった王子の目玉をくりぬき、
体中のものを引きはがせるだけひっぱがすことなのです。」

「で、冬が来るのにもかかわらず、暖かい国に行かないで、滅ぶの?それが仕事?」
「ええ。」
「それって、自分に対する偽善よね。」
「いえ、偽悪です。僕はいつもここにいるべきなのかと思っています」
「それで終わりなの?ちっとも愉快なお話ではありませんねぇ。」
「終わりです。サッカーはサッカーです。ピッチの上にはボールと選手だけしかいないんです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
社会で認められることや経済力というものは、本来ボールとは関係ないことです。
サッカーはサッカーだからこそサッカーなんです。これはそういうお話です。」
「それは極端な割り切りだとおもうけれど。」
「残念ながら、お話できることはこれだけです。
ものすごく端折りましたが25年分くらいのお話です。
シエラザードではないので、次のお話ができるまでに、また25年くらいかかると思います。」
「残念ね。もっとお話を聞きたかった。そう、でも、それではしようがない。」
「はい。」
「さようなら。」

電話はここで切れた。それから私は普通に仕事をした。
取材の問い合わせのメールを見て、返信を打ち、雑誌掲載原稿に赤字を入れてFAXした。

その日しばらくして、今度は若い男性から電話があった。
「もしもし、あの、すみません。母と親類が何度も電話したと思うんですが。
あの、すみません、係の人いますか。」
「・・・多分、係は僕です。」
「あの、すみません。あの、ウザクないですか。」
「はい?」
「その、いろいろ俺のことで電話してるみたいなので、ちょっと迷惑かけてるなと思って。」
「まあ、いろんなことがあるし。」
「あの、すみません。いろいろ言っても、俺、決めてますし。」
「あ。ああ、そうなんだ。」
「ええ、そうです。」
「よかった。」
「え、てか、ありがとうございます。」
「それじゃ、ゴール決めてくれ。」
「はい。」

むかしむかし、王子様とお姫様がおりました。

博物館のような仕事をしていると様々な問い合わせがある。
中には複雑に問題がからんだ質問もある。

それから、ふたりは幸せに暮らしましたとさ。
おしまい。

*サッカー「ミュージアム」の素140から146は、かなりノンフィクションですが、フィクションです。
登場する人物や施設は実在する人物や施設と関係はありません。
*こんな話を、たくさんの人が読んでいて驚きました。質問の多い、
文中で古本屋に売られた著者サイン本は私の卒論指導をして下さった丸山圭三郎先生の著書です。
この古本屋事件によって、私は今日本ではゆるやかな焚書が進んでいると思いました。
この10年で本の森は開発され、希少なものは絶滅するでしょう。
*さて、問題です。一体このお話には、何種類の動物が出てきたでしょうか。


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コメント 4

蹴球まん

いやー、すごいフィクションでした。
焚書ですか?そのとおりですね。
変曲点があって加速するのか?
違ったかたちでも利用されることを
願います。

by 蹴球まん (2006-12-13 20:29) 

用具係

Beautiful.

by 用具係 (2006-12-13 22:26) 

ねむりん

有難うございます。
有難うございます。
猫さんの「ご主人」との出会いとその後を、ちゃんと書いてくださって。

子供達に語って行きたい。
日本のサッカーの歩んできた道を。
私のだけでなく、色々な人があの頃から歩んできた道を。

by ねむりん (2006-12-17 03:28) 

通行人

一読しました。奥深いですね。

現在の商業主義的な風潮(サッカーに限らず)へのアンチテーゼを感じます。
もし商業主義を廃して冬の時代に戻ったとしても・・・サッカーの本質的な魅力はなんら変わることはないと思っています。お金には代えられない価値があることを、本であれ、サッカーであれ忘れないでいたいです。

by 通行人 (2006-12-20 11:24) 

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