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お知らせ [M@ミュージアムマネージャー]

サッカーミュージアムリニューアルにあたり

というおかしな理由で

ブログの更新がしばらく
激減します。

よろしくお願いします。


最近のこと [M@ミュージアムマネージャー]

もうすぐリニューアル

3年が経って、足りない展示要素を見直すということ
なによりも、各カテゴリー各年代の代表が強くなっていて
アジア、世界を相手に勝ち取ってきたトロフィーを
展示しなくてどうするということ。

いままで2010年までを見越して、
展示ゾーンを開けていたのだが、
とても全部展示できるようなスペースではない。

つまりそれだけ日本は実力をつけている。

そして、Jリーグの常設のコーナーを持つこと。
企画展示では度々展示してきたが、
この際、全クラブを紹介できる展示コーナーを
設置しようということになった。

こんどはサッカーのさまざまな部分を
やや深く展示しようとしている。
「えーまだあるの」という感じで
来た人に驚いてもらいたい。

一度来た方々、
楽しい部分は残してあります。あれとこれ。

現在の展示は10月15日まで
10月31日新規オープン予定。

ヘンシーン トオ!


公認キッズリーダー [M@ミュージアムマネージャー]

昨日、JFAハウスで
JFA職員向けのキッズリーダー講習会が実施されました。
これはJFAの職員も積極的に社会貢献しよう、
特に地元文京区の小学校、幼稚園に出向いて
スポーツすることのきっかけを造ろうという発想から
JFA技術部が直接、職員を対象に実施したものです。
Uー6 U−8 U−10の各年代にあわせた
キッズリーダーを養成するための講習会です。

でも基本は個人の意志に委ねられていますから
就業前の朝8:00から講習
就業後の夜6:00から実技講習というプログラムです。
スクールマスター講師は池内豊さん。

講習は非常にわかりやすく、VTR等を交えて、
受講者のモチベーションを高めていくことに重点が置かれています。
講習と聞くと「自動車免許更新のあれ」を
思い浮かべてやれやれって感じですが、
まったくそんなことなく、
むしろもっとヤッテクレって感じでした。

VTRに2002FIFAワールドカップの
イメージ映像が使われていることも
JFA職員の当事者にはああこんな風に
具体的に指導部分に使われているんだと
深い感慨があります。

さて夜の実技はサッカーミュージアムの
ヴァーチャルスタジアムで実施されました。
この講習にも引き続き20名ほどの
男女職員が参加したのですが、年齢幅は若く、
正直に言うとおそらく私が一番年上です。
まずは参加者相互の理解を求めてリラクスしながら
ルールを作ってグループ化していくという課題でしたが、
基本は自分が子どもになること。
5歳になること。
こどもの知力、体力の限界を知るためなんですが。
これが難しい。
でもこれ、本物のこどもであれば
絶対に盛り上がりすぎるぐらい盛り上がるだろうな
と思います。
それに加えて、さらにいろんな子どもの個性が
見えてくるだろうと思いました。

フラフープを使ってのグループでの作業。
氷鬼。
サッカーボールに親しむことを目的とした
色違いのビブスをつけての競技形式のゲーム。
そして最後は、3個のボールを同時使用してのミニサッカー。
大変面白かったです。

一番重要なことは、この年代は遊びであること。
大人のモチベーションにして競技大会として
順位付け、記録付けなどをしないこと。
これは大変理にかなったことです。

無事実技講習も終了して「修了書」をいただきました。

「修了書」はグリーンカードです。

さあ次はD級だ。



本日は休館日です。 [M@ミュージアムマネージャー]

ブログもお休みです。

でも実際は本日
朝8時からキッズリーダー講習会が
行われます。


U-17日本代表おめでとう [M@ミュージアムマネージャー]

感動しました。
負ける気がしなかったものの
2点先行はいやはやあせりました。
1993年U17を直接見てきた自分としては
ものすごいいきおいで
ジュニアユース、ユース年代は進化していると感じます。

おめでとう。おめでとう。おめでとう。

はやくトロフィーを飾りたいです。


U-16日本代表、アジアNo.1の座をかけDPR Koreaと対戦 [M@ミュージアムマネージャー]

9月14日のAFC U-17選手権シンガポール2006準決勝でシリアに2-0で勝ち、決勝進出を果たしたU-16日本代表。
対戦相手は朝鮮民主主義人民共和国代表。
決勝戦は、17日(日)20時キックオフ(現地時間)。

信じています。
青いユニフォームを身にまとったあなた方を信じています。

※決勝戦テレビ放送予定:NHK-BS1 17日(日)24:10〜26:00(録画)

監 督  城福 浩 【(財)日本サッカー協会ナショナルコーチングスタッフ/FC東京】
コーチ  小倉 勉 【(財)日本サッカー協会ナショナルコーチングスタッフ】
GKコーチ 川俣 則幸 【(財)日本サッカー協会ナショナルコーチングスタッフ】

GK
廣永 遼太郎  1990.01.09 183cm 75kg FC東京U-18
原 裕太郎 1990.04.23 186cm 78kg サンフレッチェ広島ユース
大畑 拓也 1990.05.28 178cm 67kg ジュビロ磐田ユース

DF
金井 貢史 1990.02.05 173cm 61kg 横浜F・マリノスユース
山地 翔    1990.04.14 181cm 70kg 浦和レッズユース
高橋 峻希 1990.05.04 164cm 54kg 浦和レッズユース
山崎 正登 1990.05.12 170cm 57kg 柏レイソルU-18
甲斐 公博 1990.05.16 176cm 60kg 横浜F・マリノスユース
濱田 水輝 1990.05.18 182cm 74kg 浦和レッズユース

MF
柿谷 曜一朗 1990.01.03 172cm 58kg セレッソ大阪
八反田 康平 1990.01.08 168cm 50kg 鹿児島県立鹿児島中央高校
水沼 宏太 1990.02.22 174cm 66kg 横浜F・マリノスユース
田中 裕人 1990.04.26 170cm 60kg ガンバ大阪ユース
岡本 知剛 1990.06.29 174cm 63kg サンフレッチェ広島ユース
山田 直輝 1990.07.04 165cm 60kg 浦和レッズユース
山浦 公裕 1990.10.29 170cm 58kg FC東京U-18
河野 広貴 1990.3.30 160cm/52kg ヴェルディユース

FW
大塚 翔平 1990.04.11 177cm 64kg ガンバ大阪ユース
齋藤 学  1990.04.04 165cm 58kg 横浜F・マリノスユース
比嘉 厚平 1990.04.30 163cm 55kg 柏レイソルU-18
端戸 仁  1990.05.31 173cm 58kg 横浜F・マリノスユース


最近のこと 5 [M@ミュージアムマネージャー]

まったくスポーツというか
運動にほど遠かった
ご近所の奥様が
いきなりフットサルに燃えている。

仕事場に南米の友人がいて
パーティに呼ばれて
ちょっとだけが
いきなり本気モードにスイッチが入ったらしい。

こういうのいい感じだと思う。


サッカー「ミュージアム」の素 139 [M@ミュージアムマネージャー]

日本チームの弱点は走力の不足にある。
今後の練習もランニングの力の養成に努めたならば
勝つ日の来ることを信じて疑わぬ。

日本代表へのコメントです。
でもこれ
1927年昭和2年9月4日の新聞です。

第8回極東選手権で初めての公式対外試合で勝った後、
野津謙さんの大会についての講評です。
この時、勝った相手はフィリピンです。

そして日本にサッカーが伝来してから
この初勝利まで
なんと54年もかかったのでした。

・・・・やれやれ。


日本サッカー殿堂 [M@ミュージアムマネージャー]

先日、日本サッカー殿堂の掲額者の式典がありました。

東京オリンピック メキシコオリンピックの代表選手の方々、
一時代を築き上げた人々はやはり輝きが違いました。

横山謙三 Kenzo YOKOYAMA

●1943年1月21日、東京都生まれ

埼玉県立川口高校、立教大学を経て、三菱重工入り。

1961年高校3年の時にGKに転向し、同年第3回アジアユース大会に出場。
大学在学中の1963年に日本代表初キャップ。
1964年の第18回オリンピック競技大会(東京)、
1968年の第19回大会(メキシコシティー)では全試合に出場し、
終始安定したセービングと分析力でゴールを守り、
東京オリンピックのベスト8、
メキシコオリンピックの銅メダル獲得に貢献。
また、アジア競技大会(1966年第5回大会では3位)、
FIFAワールドカップメキシコ、西ドイツ両大会予選、
ミュンヘンオリンピック予選などに出場し、
1975年まで日本代表のGKとして活躍した。
Aマッチ出場48試合。

JSL(三菱重工)では136試合出場(1966〜77年)。1973〜75年度主将。
JSL1部では1969年度の初優勝を含む優勝2回。
1971年度天皇杯全日本選手権優勝。
年間優秀11人賞7回受賞。

1976〜83年、三菱の監督をつとめ
(77年までは選手兼任)、
JSL1部、JSLカップ、天皇杯ともに
2回ずつの優勝を果たし、1978年度には三冠を達成。

1988年日本代表監督に就任し、
1991年キリンカップ初優勝。
1991〜92年にはU-23日本代表の総監督を兼任し、
代表の強化を図った。
この間、JFA理事・強化委員長もつとめる。

1994年浦和レッズ監督、1995年同GM。
その後、常務取締役・事業本部長を経て、
取締役社長補佐。
強化のみならず運営全般にも携わり、
クラブ育成に尽力した。

2006年、埼玉県協会専務理事に就任。

Gkとしての動きを観察するために
上野動物園の黒豹を毎日見に行ったそうです。
しかしどうも動かないので、
小石を投げていたら出入り禁止になったそうです。


森孝慈 Takaji MORI

●1943年11月24日、広島県生まれ

広島・修道高校、早稲田大学を経て、三菱重工入り。

1962年ユース代表として第4回アジアユース大会に出場。
早稲田大学では1年からレギュラーとして活躍した。
主将をつとめた1966年度には関東大学リーグ、
全国大学選手権、天皇杯全日本選手権で優勝し
三冠を達成するなど、早稲田大学の黄金期を担う。

1964年第18回オリンピック競技大会(東京)のメンバーに選出され、
以後1976年まで日本代表として活躍。
1968年第19回オリンピック競技大会(メキシコシティー)では全試合に出場し、
HBとして中盤をリードし銅メダル獲得に貢献した。
また、アジア競技大会(1966年第5回大会では3位)、
FIFAワールドカップメキシコ、西ドイツ両大会予選、
ミュンヘン、モントリオール両オリンピック予選などに出場。
Aマッチ出場55試合、2得点。

JSL(三菱重工)では146試合出場、28得点(1967〜77年)。
JSL1部優勝2回、天皇杯優勝2回。
年間優秀11人賞5回受賞。

1979〜80年西ドイツにコーチ研修留学し、
日本代表コーチを経て、1981年日本代表監督に就任。
1985年、FIFAワールドカップメキシコ大会アジア予選最終戦では
惜しくも本大会出場を逃すが、
着実に日本の競技力を引き上げ、
進むべき道を示した。

1992〜93年浦和レッズ監督、
1995〜97年横浜マリノスGM、
1998年アビスパ福岡監督、
1999〜2001年同GM、
2001〜06年浦和レッズGM。

若いときは若竹といわれてモテまくっていたそうですが、
いまはシナチクになってしまったというジョークでした。

宮本輝紀 Teruki MIYAMOTO

●1940年12月26日、広島県生まれ

広島・山陽高校から八幡製鐵(1970年から新日本製鐵)入り。

1959年、高校選抜で挑んだ第1回アジアユース大会に出場し3位。
精度の高いパスと巧妙なボールさばき、
シュートの正確性を併せ持ち、1960年に日本代表入りする。
1964年の第18回オリンピック競技大会(東京)、
1968年の第19回大会(メキシコシティー)では全試合に出場。
メキシコオリンピックでは中盤構成の大任を担い攻守に活躍し、
銅メダル獲得に多大な貢献をした。
また、FIFAワールドカップチリ、メキシコ両大会予選、
アジア競技大会(1966年第5回大会では3位)、ミュンヘンオリンピック予選などに出場し、
1971年まで日本代表として活躍した。
Aマッチ出場57試合、19得点。

1959年入社の八幡製鐵でも確実なプレーで黄金時代の立役者となり、
1963、64年度全日本実業団選手権2連覇、
1964年度天皇杯全日本選手権優勝に貢献。
JSLでは138試合出場、68得点(1965〜76年)。
1969〜73年度主将。
1970年度JSLアシスト王、JSL通算得点ランキング6位(68得点)、
年間優秀11人賞6回受賞。
1967年度年間最優秀選手賞受賞。

1974〜75年新日鐵コーチ、
1976〜79年同監督(76年までは選手兼任)。
1981〜85年、国民体育大会福岡県代表監督。
1996年には九州共立大学の監督に就任し、
2年間でチームを九州大学リーグ1部に昇格させた。

2000年没


渡辺正 Masashi WATANABE

●1936年1月11日、広島県生まれ

広島市立基町高校、八幡製鐵(1954〜58、62〜71年。1970年から新日本製鐵)、立教大学でプレー。
立教大学では、1959年度関東大学リーグ、東西学生王座決定戦優勝。

1957年に日本代表初キャップ。
1970年まで主にFWとして活躍。
1964年の第18回オリンピック競技大会(東京)、
1968年の第19回大会(メキシコシティー)に出場し、メキシコオリンピックでは、ブラジル戦の同点ゴールを含む2得点を挙げ、
3位決定戦(対メキシコ)では中盤の起点役として活躍した。
また、ローマオリンピック予選、FIFAワールドカップチリ、メキシコ両大会予選、
アジア競技大会(1966年第5回大会では3位)などに出場。
Aマッチ出場38試合、13得点。

1962年に再入社した八幡製鐵では、
1963、64年度全日本実業団選手権2連覇、
1964年度天皇杯全日本選手権優勝。
JSLでは79試合出場、19得点(1965〜71年)。
1965、67年度主将。1968年度年間優秀11人賞受賞。

1968年八幡製鐵コーチ、
1969〜75年には監督をつとめる(71年まで選手兼任)。
1971年からは、日本代表Bチーム、日本ユース代表(1973年第15回アジアユース大会準優勝)、
日本ジュニア代表、日本選抜などの監督を歴任。
1979年、下村監督のもと日本代表コーチをつとめ、
翌1980年5月、代表の再建を目指して日本代表監督に就任。
しかしながら同年秋、病にたおれ、志半ばで監督を退いた。

1995年没


小城得達 Aritatsu OGI

●1942年12月10日、広島県生まれ

広島大学教育学部附属高校、中央大学を経て、東洋工業入り。

1961年ユース代表に選出され、第3回アジアユース大会に出場。
同年入学した中央大学ではバランスのとれた中盤として活躍し、
1962年度には関東大学リーグ、東西学生王座決定戦、全国大学選手権、天皇杯全日本選手権の四冠に輝く。

1963年、日本代表初キャップ。
1964年の第18回オリンピック競技大会(東京)、
1968年の第19回大会(メキシコシティー)の全試合に出場。
東京オリンピックでは、強豪アルゼンチン戦で決勝点を挙げるなどチームのベスト8に貢献。
メキシコオリンピックでは、ディフェンダーの中心として活躍し銅メダルを獲得した。
また、アジア競技大会(1966年第5回大会では3位)、
FIFAワールドカップメキシコ、西ドイツ両大会予選、
ミュンヘン、モントリオール両オリンピック予選などに出場し、
1976年まで日本代表として活躍。
Aマッチ出場62試合、11得点。
日本代表戦の総出場数213試合は歴代2位(2006年7月現在)。

JSL(東洋工業)では163試合出場、57得点(1965〜76年)。
1971〜75年度主将。
1965〜68年度の4連覇を含むJSL1部優勝5回、天皇杯優勝3回。
1966年度JSL得点王、年間優秀11人賞7回受賞。
1965、70年度年間最優秀選手賞受賞。

1976年度東洋工業コーチ(選手兼任)、
1977〜80年度同監督をとつめる。

広島県協会理事、副会長を経て会長。
中国協会副会長。
広島県体育協会常務理事・強化委員長を経て会賓。

「相手のマークをはずすな、
 トイレにいくならそこに付いていけ」
クラマーさんに言われたそうです。

サッカーがただただ好きだということでは、
語りつくせない人生があります。


本日は休館日です。ブログもお休み。 [M@ミュージアムマネージャー]

本日は休館日です。ブログもお休みです。

昨日は日本サッカー殿堂式典が行われました。
ケッコウ面白かったです。

詳細は後日。


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