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衝撃の事実 最初の日本代表のユニフォームの色 [M@ミュージアムマネージャー]

大日本蹴球協会の発足は1921年大正10年9月10日です。

その以前は東京高等師範(現在の筑波大学)が
中心となってサッカーの普及がなされていました。

1913年大正2年より「東洋オリンピック」として
日本・中華民国・フィリピンの3ヶ国による
総合スポーツ大会として始められた「極東選手権」に、
1917年(大正6年)日本で開催される第三回大会から
蹴球競技=サッカーも参加することが決まります。
これが日本人がサッカーの正式な国際試合に出場した初の試合です。
つまり最初の「日本代表」ということになります。
その時の日本代表は東京高等師範単独チームです。

5月9日東京芝浦埋立地で日本初のサッカー公式国際試合が行われました。

その時のメンバーは
冨田玄弥、芳賀剛吉、
武井群嗣、吉木幸三郎、
竹内広三郎、上山熊之助、
渡辺敏綱、佐々木等、
大久保準一、大杉謹一、
藤井春吉、額田登

日本代表初ゴールは藤井春吉選手です。
しかし結果は惨敗でした。

 0−5 中華民国 
 2−15 フィリピン 藤井春吉2

この時の日本代表の集合写真がミュージアムにあるのですが、
着ていたユニフォームの色までは判別できないでいました。

10月末のリニューアル作業に向けて、
Tマネージャーが国会図書館で新聞を検索したところ
以下の記事がありました。

ちょっと衝撃的事実の発覚です。

1917年大正6年5月10日大阪毎日新聞

午前十時三十分ウエリース氏のレフエリーにて始まり
先づ陣形を見れば
海老茶のユニフォームに白鉢巻き勇ましき日本軍は東方に
紺堅縞を着せる支那軍は西方に陣を布き
前半 日本軍キックオフに開戦五分にして
支那軍は忽ち日本軍の陣営近く攻め寄せ
左翼側より巧みにキックしてゴールに入れ
先づ一點を獲得して支那應援團歓喜す
兎角にして支那軍のキックは愈々猛烈となり
本陣真近く攻め寄りペナルテラインよりのキック
的確にゴールに入り又一點を加う
日本軍勇を振つて逆襲し右翼隅よりのキック
効なく忽ち盛り返されて暫時の間に
又亦二點を入れ合計四點となり
十一時二十分前半を終わり(後略)

5月11日読売新聞

比律寶對日本の蹴球戦は競技第三日午前9時半、
審判ウエリー氏の警笛に開始を宣せられた。
前日支軍との零敗に奮起した日本選手は
高等師範一流の白鉢巻勇ましく大童となって力戦したが
比島選手は何れも猛者揃いの獰猛振りを発揮して
ハーフタイム以前に五點、
日本人は常に廊迫され、續きて、
この日も海老茶のユニフォームは惨として生色がない、
好漢大久保の落ち着いた強蹴に
タイム前辛く一點を挙げて僅かに零敗は免れたが
タイム後は風下の悪位置に到底勝味なく、
比軍の十點を獲る間に一點を盛り返したに過ぎず
遂に十五對ニの大敗を蒙った(後略)

初の日本代表のユニフォームの色は「海老茶」だったのです。


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